夜が好きだった。
葉が落ちて、すっかり寂しくなったモミジの木も、ぽつぽつと地面を叩く小雨の音も、私は好きだった。
夜は暗くて怖いものだという人もいるが私にとっては全く別で。
夜は私を包んでくれた。モミジも雨も夜の闇も何も言ってこない。静かで優しい世界。
夜の暗闇の中でこそ私は自由に生きられる気がしていた。
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コンビニでコーヒーとチョコを買い、自宅へ戻る途中、急に雨足が強くなった。
戻って傘を買おうかと少し考えたけど、店員さんの機械のような動きをもう一度見ると、
せっかくの夜が台無しになってしまう気がして、結局濡れて帰ることにした。
走ることもせず、私はゆっくりと夜の雨に打たれた。
髪、服、身体。冷たい雨は私のいたるところに降り注ぎ、たちまち私を濡らしていく。
目を瞑ると、夜の雨は私の不安・疲れ・退屈などの湿った感情を綺麗に流してくれる気がした。
まるで暑いシャワーを浴びているような安心感のある雨だった。私はただただ濡れ続けた。
「大丈夫か?」
ずぶ濡れの住宅街に声が低く響いた。
目を開けると、私より年上の、20代から30代前半くらいに見える男が傘を差しながら、私の方へと歩いてくるのが映った。
「すぐ近くよ」と私はそっけなく答えた。
「そうか」と男は言うと、煙草を地面に落とし、傘を畳み、両手で丁寧に傘を私に差し出した。
落ちた煙草はあっけなく灯を消し、男はまたたくまに雨粒に湿っていく。
「大丈夫。本当に近くだから」と私が男の傘を拒むと、男は
「仕事柄、女の子を見ると大切に扱ってしまうんだ」と表情を緩めた。
私は男の様子をじっと観察した。
黒のダウンジャケットに細めのジーンズは仕事のときに着る服装ではなさそうだったけれど、
私にはこの男がホストとかそういった類の人ではないように思えた。
ホストにしてはシンプルすぎる普段着だし、
あたたかいのと冷たいのが混ざった、降り始めの雨のような匂いがこの男は安心だと告げていた。
男が食い下がらないので、結局私が食い下がった。
そのときにはお互い、傘など必要ないくらいにびしょ濡れになっていた。
「別に返さなくてもいい。傘なら家にまだあるし、足りなくなったら買えばいいしな」
男は頭を振ると私に背を向け、何度かライターのスイッチを押して、新しい煙草に火を点けた。
そして、雨に滲みながらも微かに燃える煙草を咥えながら、ゆっくりと元来た道を戻り始めた。
私は渡されたビニール傘の下で、雨がぽつぽつと傘を叩く音を聞きながら、しばらくの間、男の背中に見惚れていた。
月の明かりは雲に遮られ、薄暗い街灯だけが照らす男の背中はどこまでも鮮明に私に映った。
やっぱりこの人も……。
夜雨に打たれる男の背中は、寂しくて、どこか温かい匂いがした。
男と再会できたのは三日後の夜だった。
家を出ると閑静な住宅街は白に染まっていた。世界はモノクロのカラードレスみたいに上下で綺麗に黒と白に切り離されていた。
そういえば雪が降っていた、と昼間の事を思い出しながらコートの中に身を丸めた。
お気に入りのブーツで雪の上を歩くと、氷が混じっているからか、かりかりと音が鳴った。
空を見上げると、雲のベール越しに月が弱々しく光っていた。
天気が良いとは言い難いが、雪も雨も降っていない。少し肌寒い。けれど、絶好の散歩日和だった。
遠回りをして、最寄りのコンビニに入り、缶コーヒーを買った。
店を出ると、私の小さな足跡が家まで連なっていて、私はそれをたどりながら帰路につくことに決めた。
靴の試着をするように、自分の足跡の上にそっとブーツを乗せて歩いた。
用水路沿いの道で、水が奏でる音に耳を傾けていると、遠くに小さな灯りが見えた。
あの男だとすぐにわかった。
と男は私に気づいて声をかけた。
服装はこの前会った時と同じようなもので、煙草を口に咥え、両手はポケットに突っ込まれていた。
「えぇ。おかげさまで。傘……。ごめんなさい今日は持っていないの」
「別に気にしなくていい」
男は右手を出し、名残惜しそうに煙を吐くと、煙草を用水路へと投げた。
煙草は小さく光りながら夜の中へと落ちていった。
「煙草捨てなくてもいいのよ?」
煙草の匂いは嫌いではないし、と私は言った。
「仕事柄、若い女の人の前だと吸わないようにしている」
けど気にしないならいいか、と男は新しい煙草を取り出して、火をつけた。
「そういえばこの前も言っていましたね。お聞きして大丈夫なのかわかりませんが、どういった仕事をなされてるんですか?」
私の改まった質問に、一服ついてから男は答えた。
「芸能関係。それの裏方をやっている」
名刺は……持ってるわけがなかったと男は勤務先の事務所の名前を口にした。
流行に疎い私でも知っている一流の事務所だった。
私の予想の範疇を超えた答えに、最初はそう思えたが、
裏方。夜空に輝く月の裏側のようなものだと考えると妙に納得できた。
この男は舞台に立ち光を浴びるようなタイプの人間ではないと私は決めつけていた。
「そういう君は?」
男が私に聞いた。「聞いて大丈夫なのかわからないけど」と付け加えるので、
自分が先に聞いた手前、答えないわけにはいかないといった謎の礼儀に駆られた。
変な、どうでもいいことばかりを気にするのは私の昔からのことだった。
……そんなどうでもいいことは置いておいて。
私は正直に「学生。高校生」と答えた。
「高校生?」
抑揚のなかった彼の声に初めて変化が見られた。声のボリュームとまぶた上がった。
私の言ったことを確かめるように男は私を見ていた。
私の心は強い夜風に揺れるモミジの枝のように乱れた。
推し量るように私を覗き込む目は、私がよく知った目と全く同じ目をしていた。
だからこそ、次に彼の口から出る言葉が私には予測できた。
予想通りの、聞き慣れた言葉だった。
「高校生が」「子供が」「若いのだから」って。
私の周りの大人たちは温もりのない熱い言葉をよく口にした。
「えぇ、そうよ。でも、いけないことかしら?」
普段なら適当に受け流し、いい子を演じる私なのだが、今日の私は牙をたてて噛みついた。
「大人たちは、すぐに子供、子供って」
おぼろげに降り注ぐ月の明かりが、私を凶暴な狼に変身させていた。そして何より
「うんざりだわ。大人たちも。この世の中も」
私と同じ臭いのするこの男が、他の人と同じセリフを吐くことが余計、私を狂わせた。
注意していないと聞き漏らしてしまいそうな、流れ星のように儚げで小さな声だった。
男も私の臭いに気づいたようだった。
「もしよかったらなんだけど」
男は少し震えていた。寒さではなく、まるで愛しいものを壊すときのような、
いくつもの混じった感情が彼を震えさせているようだった。悩んでいるようだった。どうすればよいのかを。
私はじっと彼の顔を見つめ、言葉を待った。
すっかりと冷えてしまった灰が目の前ではらはらと雪の上に落ちていった。
「アイドルにならないか?」
しばらくして男はそう言葉を紡いだ。「アイドル」という言葉が夜に、私に小さく響いた。
モデルや女優とは異なる、聞き慣れない言葉が私を揺らした。
「そうだ」
歌って、踊って、みんなを笑顔に。
私の中でのアイドルの姿はとても眩しく輝いているもので、アイドルをしている私の姿はとても不明瞭なものだった。
「そんなの無理よ」
不意に強い夜風が吹いた。喚き声のような風だった。私はさっとコートに身を隠し、男はそっと空を見上げた。
真っ黒な空の切れ間から白い三日月が顔を覗かせていた。
「やってみないとわからない。それに」
欠けた月を見上げながら男は再び言葉を紡ぎ始めた。男の震えは止まっていた。
月から私へと視線を向け、抑揚のない声で、それでも、まるで気象予報士がこの空の様子を見て
「明日の天気は晴れです。間違いありません」と言い切るように、確信した様子で言った。
「君なら夜が似合うアイドルになれる」
あぁ、と男は頷いて新しい煙草に火をつけた。
「儚げで、神秘的で、惹きつけられる。まるで月のような。そういったアイドルに」
夜の似合うアイドル。儚げで、神秘的。夜とアイドル。
男の紡いだ言葉を頭の中で何度も繰り返した。
雪のように積もっていくその言葉たちは、大喧嘩しているようにもマリアージュのようにも思えた。
目の前では小さな炎がゆらゆらと燃えていた。これからのことよりも目の前の炎の温度が私には気になった。
触れたら火傷するくらい熱いのだろうか。それとも……。
映画のセットと見紛うほどの立派なエントランスでは、たくさんの人が忙しそうにしていた。
シンデレラでも王子様でもない、スーツ姿の人たちが大階段を行き交う光景は私の居心地を悪くさせた。
約束の時間を過ぎても彼が来ないので、受付に行き彼の名刺を渡した。受付嬢はとびきりの笑顔で、あと少ししたら彼が来ることを教えてくれた。
私は端の壁に寄りかかって、そこから舞踏会の様子を眺めた。
彼らは何のために踊っているのだろう。
時間つぶしになるかと思い、少し考えてみたけれど、踊ったことのない私にはよくわからなかった。
おとぎ話に出てくるような華やかな舞踏会で踊るのならまだしも、スーツ姿だらけの舞踏会で自分も踊ってみたいとは思わないけれど。
目を瞑り、舞踏会の音に耳を傾けながら、うとうとしていると、
「ごめんごめん」と声をかけられた。ずいぶん明るい口調だった。
目を開けると彼が立っていた。タキシードでも魔法のローブでもないスーツ姿だった。
「ついてきて」と彼が言ったので、重くなった身体を壁から引きはがして姿勢を整えた。私の様子を見て、彼も背筋を伸ばし、身なりをしゃきっと整えた。
シャツもスーツもしわ一つ付いていなくて、皮膚のようにぴたりと彼に張り付いていた。
黒のシングルスーツは彼にとてもマッチしていて、私の不安はどんどん色濃くなっていった。
連れてこられた部屋は壁一面に鏡が敷かれただけのシンプルな部屋だった。
音響機器などはあったけれど、派手な衣装なども置いていなくて、練習をしている女の子たちも自前のレッスン着のようだった。
アイドルの練習着と聞くとそれだけで価値のありそうなものに思えるが、
見た目は私が持ってきた動きやすい運動用の服とほとんど同じようなものだった。
私の想像よりもアイドルというものは地味なものらしい。
「今日は速水さんの基礎能力を測りたいと思います」
彼は私にそう告げると、トレーナーであろう人に頭を下げ、部屋を出ていった。
あまりにも愛想よく笑っていたので、私をスカウトした彼とは別人のように思えた。
彼のぴんと伸びた背筋を私、トレーナーさん、練習をしていた女の子たちが見送った。
そして不思議なことに、扉が閉まると彼女たちは私の方を一瞥してから自らの練習を再開した。
「じゃあ……、かなでちゃん?だっけ?まずは私がお手本を見せるから真似してみて」
私より少し年上であろう童顔のトレーナーさんは彼女たちの視線には気づいていないようだった。
先ほど彼がしてみせたような人懐っこい笑顔を浮かべて、基礎的なステップを踏み始めた。
「おつかれさまです」
一時間ほど時間が経つと、彼が再びレッスン場へと顔を出した。
ペットボトルの水を私とトレーナーさんに丁寧に手渡して、「どうでしたか?」と結果を尋ねた。
「筋がいいです。ダンスも歌もとても初めてとは思えないくらいに」
トレーナーさんはそう答えると、私の方を見て、にこり。
「そうですか」と彼。同じくにこりと笑って、私を見た。
「速水さんは?やってみてどうだった?」
部屋中の視線が私に集まるのを感じた。
「難しいと思えるところはそんなになかったし、体力もこれくらいなら大丈夫……です」
無難な言葉を選び、それから彼らに合わせてにこりと笑ってみせた。
「なら次からは他の子たちと混ざってやってもらおうかな」
「問題ないですよね?」と彼が聞くと、私ではなくトレーナーさんがうんうんと頷いた。
レッスン室の扉を開けると昨日より人がいた。その中には見知った顔もちらほらあった。
「いやー上手やね。はやみさん?やっけ?」
今をときめく現役アイドル達とのダンスレッスンが休憩に入ると、隣で練習していた子が私に声をかけた。
異彩を放つ銀の短髪。そして狐のような三角のつり目。
塩見周子。4代目シンデレラガールに選ばれた人気のアイドルだった。
「ありがとうございます。奏で大丈夫ですよ」
「なら、あたしもしゅーこでいいよ。年齢もそんなに変わらんやろし、言葉もタメ口でいいよ」
私が17才であることを告げると彼女は
「え?ほんまに?めっちゃ大人っぽいやん。でもまぁタメ口でいいよー」
とけらけら笑った。昨日部屋にいたアイドルの子たちと違って、自然で気さくな笑顔だった。
これがシンデレラガールの余裕なのか、それともこんな風に笑えるからシンデレラガールに選ばれたのかは、わからなかった。
「それにしてもほんとに17才に見えんなぁ」
「そう?」
「うん。全然見えへん。あたしより大人びて見える。流石はPさんやね。どこでこんな子見つけてくるんやろ」
まじまじと私のことを見つめている周子から彼の名前が出たことに驚いて、私も彼の名前を繰り返した。
英語の発音の授業のような、たどたどしい言い方になった。
知らないと答えると周子は次々と名前を挙げていった。
高垣楓、渋谷凛、どの名前も私でも知っているトップクラスのアイドル達の名前だった。
「だから奏ちゃんはデビューしてないのにアイドル部門の中では有名なんよ。久しぶりにあの人が連れてきた子やし」
言葉に詰まった。昨日の視線の理由を理解すると同時に、たくさんの疑問が波のように一斉に押し寄せてきて、私を飲み込んだ。
彼は有能なプロデューサーだった。彼はトッププロデューサーの地位を自ら捨てた。そんな彼が私をスカウトした。
なぜ?どうして?
目の前が暗くなった。考えれば考えるほど思考の海に深く溺れていきそうだった。
「はい、休憩終わり。みんな集まってー」
一杯一杯になった私に助け舟を出すかのような絶妙なタイミングで、トレーナーさんの声がレッスン室に木霊した。
コンビニに入ると彼がいた。
こんばんはと私が声をかけると、彼は「おう」と短く返事した。昼間のときの声よりも低い、聞き慣れた声だった。
「どうだアイドルやれそうか?」
コーヒーとチョコを私に渡すと、彼は買ったばかりの煙草に火をつけた。
行くあてのない白い煙が夜の中を彷徨い始めた。
「まだわからないわ」
アイドルのこともこれからのことも彼のことも、わからないことばかりだった。
それらは別々のものに見えて、実際は一本の太い鎖で縛られている気がしていた。
そこまでわかっているのに、肝心の鎖の外し方は見当がつかなかった。
「ねぇ。あなたトッププロデューサーだったのね」
私が言うと彼は不思議そうに私を見た。
「周子よ」
「あぁ周子ちゃんか」
一応そうだな、と彼は答えた。
「どうしてプロデュースやめちゃったの?」
「どうしてって言われてもなぁ」
彼は煙を燻ぶらせた。
指で煙草を軽くたたくと、溜まっていた灰が溶け始めの雪の上に落ちて、たちまち同化した。
「もう大丈夫だと思ったんだ」
「大丈夫って?」
「トップアイドルになったし、俺以外の人がプロデュースしても大丈夫ってことだよ」
と彼は頭を傾けている私に説明した。彼の説明を聞いても、私の頭は傾いたままだった。
彼の言葉は張りぼての家のようだった。形はあるけど中身がない。本物かどうかわからない。
本当はもう一つ、一番聞きたいことがあったのだけれど、結局私は聞けなかった。
彼の横で適度な距離を保ちながら、煙の行き先を見つめた。
煙は夜の中を勢いよく上がっていき、ある一定の高さでふっと消えた。
「デビューが決まった」
連れてこられた談話室の柔らかすぎるソファに腰をかけると彼が口を開いた。
デビュー予定日は4月の中頃とのことだった。二か月ほど未来の話だった。
「ずいぶんと早いのね」
「レッスンをしっかりやれば大丈夫」
それに既に曲はできているんだ、と彼はウォークマンを取り出した。
内蔵されたスピーカーから聞き慣れない電子音が鳴り始めた。
アイドルの曲はあまり耳にしないが、それでもこの曲が従来のアイドルの曲とはかけ離れているものだということはわかった。
「いい曲ね」
「だろ?EDMって言うんだ」
首を傾げた私に彼は
「エレクトロニック・ダンス・ミュージック」
と口を大きくゆっくりと動かした。
「詩もすでに依頼していて、振り付けも出来ている」
「そう。じゃあ後は私のやる気しだいなのね」
「そういうことだ」
彼はウォークマンの電源を切って胸ポケットにしまった。
ざわざわと外の声がドアの隙間から這うように入ってきた。
「エレクトロニック・ダンス・ミュージックでしょ?」
そうだ、と彼は小さく笑った。
「つまりダンスがとても重要になる。だから速水さんはこれからダンスレッスンがメインになってくる。
そのためには普段から基礎体力をつけることを意識したり、柔軟も……」
学校の先生の青春エピソードのような、終わりの見えない彼の話に、
私は適当に頷いて、タイミングのいいところで「わかったわ」と言った。
「さっそくレッスンにいけばいいのね」
「あぁ。早速レッスン室にいこう」
「おつかれさまですー」
レッスン室でダンスの練習をしていると周子が入ってきた。
数人のアイドル達の中から私の顔を見つけると、周子は嬉しそうに
「奏ちゃーん、お腹すいたーん」と抱きついてきた。
「ちょっと!大体、お腹が空いてるならレッスン室じゃなくて、カフェにでもいくべきでしょ」
「奏ちゃんのこと見たらお腹すいたーん」
「しゅーこお姉さんがおごってあげるから」と周子は笑いながら、私のTシャツの袖を引っ張った。
私が動かずにいると、「はやくはやくー」と駄々をこねて、もう一度私の袖を引っ張った。
傍から見れば、私の方が年上に見えていることは間違いなかった。私は「仕方ないわね」とため息をついた。
事務所にあるカフェは昼時なのに空いていた。
屋外の席は冬だからか全席空いていて、屋内のテーブル席でちらほらと私服姿の女性たちがおしゃべりをしているだけだった。
女性達の席から、ちょうど等間隔くらい離れた席に私たちは座った。
「ここ、あんまり男性社員の人は利用しないんだ」
私の視線に気づいて、周子が言った。
「そうなの?」
「うん。メニューもどっちかっていうと女の子向けのやつが多いし」
ほらと周子がメニューを広げた。
確かに軽食はオムライスやサンドイッチが少しあるくらいで、パフェや飲み物が大半を占めていた。
「あたしメロンソーダ。奏ちゃんはー?」
「じゃあコーヒーを」
「それだけだとレッスン持たないよ?」
「あたしのおごりだから気にしないで食べていいよー」と周子が言うので、サンドイッチもごちそうになることにした。
玉子とポテトサラダの2種類あって、少し悩むと、「ポテトサラダ美味しいよー」と言うので、ポテトサラダの方を頼んだ。
少し世間話をするとすぐに注文した商品が運ばれてきて、二人、手を合わせていただきますをした。
ソーダの海に浮かぶアイスの山をつつきながら周子が言った。
「まぁそうね」
ポテトサラダのサンドイッチを一口かじって答えた。
周子の言ったとおり、家庭的な味で美味しいものだった。(もっとも家庭的な味のしない、美味しくないポテトサラダというものに今まで私は出会ったことはなかったけれど)
確かに最近の私は頑張っていた。
平日はほぼ毎日放課後に顔を出していたし、土日も少なくとも一日はレッスン室でステップの確認をしていた。
昔から運動センスも記憶力も悪い方ではなかったし、
ダンスと歌を覚えるだけというのは自分のみとの闘いなので、余計なことを考えなくて済む分、私としても気が楽だった。
この日までには踊れるようにしといてと彼に指定された日付まで時間はたくさん残っているが、
既にダンスの振り付けも歌詞もほとんど頭の中に完璧に入っていた。
「そんなことないわ」と条件反射のように口を尖らせて私は反論した。
「じゃあ学校の成績は?」と周子が聞くので、この前の試験の結果を教えた。
「やっぱり優等生やん」
周子は嬉しそうにアイスを口を運んだ。予想が的中したのを単純に喜んでいるようだった。
私は力を抜き、ため息をはいた。私だけ口を尖らせているのが、
真面目・優等生といった言葉に過剰に反応しているのが、急にばかばかしく思えた。
「そういう貴方はどうなのよ」
「うん?」
「成績。優秀だったの?」
「良さそうに見える?」
周子があまりにも自身満々に聞くので、つい笑ってしまった。
「確かに愚問だったわ。ごめんなさい」
私がそう言うと今度は周子が嬉しそうに口を尖らせた。
「それはそれで失礼じゃない?……そういうことをいう子にはこうだ」
と周子は私のサンドイッチを一つつかんで、一口で口に放り込んだ。
「……サンドイッチ欲しかったなら言ってくれればよかったのに」
「そういうわけじゃない!」
口をもごもごさせながら必死に怒る周子の様子がおかしくて私は声をあげて笑った。
「今日は誘ってくれてありがとう。久しぶりに美味しいコーヒーが飲めたわ」
財布を出した私に周子は手をひらひらとさせた。
「今回はあたしが誘ったから、あたしが出すよ。おごるって言ったし」
「次からは割り勘ね」と周子が言ったので、「もちろんよ」と私は答えた。
レッスン室に戻り、二人で柔軟を行い、その後、個人レッスンに移った。
鏡越しに周子が映ると、さっきのサンドイッチを口いっぱいに頬張った周子の顔が私の顔に浮かんできて、そのたびに笑ってしまった。
あまりレッスンに集中できなかった。
私が笑い声をあげるたび、トレーナーさんと周子が声を揃えて「奏ちゃん!」と私を叱った。
「おつかれさまです」
久しぶりに彼がレッスン室に入ってきた。3月のはじめだった。雪はすっかり溶け、草木が茂り始めていた。
彼から水を受け取って私とトレーナーさんは愛想よく「おつかれさまです」と返事した。
「お二人だけですか?」
私とトレーナーさんしかいない寂しい様子のレッスン室をきょろきょろと見渡しながら彼が聞いた。
「はい。この時間は奏ちゃんだけですよ」
「そうですか」
ぼんやりと鏡越しに彼を見ていると目があった。鏡の中の彼が愛想よく微笑んだので、我に返り、彼に向き直った。
現実の彼も鏡の中と同じように愛想よく笑っていた。
「速水さん。振りも歌詞も全部覚えた?」
「そうね。一通りは入っていると思うわ」
「おっけー。なら、今からここでちょっとやってくれる?」
「小さいリハーサルだ」と彼は言った。リハーサルに小さいも大きいもあるのかなと思いながらも、私は頷いた。
「よし決まり」
彼はスーツの内ポケットからウォークマンを取り出して、スピーカーに取り付けた。レッスン室に電子音が鳴り始めた。
リハーサルを終えると彼はうーんと首を捻った。意外な反応だった。私としては悪くない出来だった。
歌詞かステップのどこかを間違えたのかと思い返してみても、これといったミスはなかった。でも彼が満足していないのは明らかだった。
私は彼から水を受け取り、どうだったかと尋ねた。あまりできなかったテストの結果を返却されるときの気分だった。
「85点」
と彼は言った。「歌90点。ダンスも90点」
「それだと計算が合わないようだけれど?」
「合っているさ」
彼は続けた。
「速水さんはこのままだと90点しかとれない。あと10点がどうしても足りない」
「そう」と私は言った。
どうすればあと10点とれるの? とは聞けなかった。
試されている気がした。
それは自分で考えなさいと彼の瞳が優しく私に訴えかけていた。
私のデビューは予定よりずいぶん遅れた。残りの10点の取り方が全然わからなかったのだ。
彼に言われた次の日からも私はレッスンに通い詰めた。
踊っているときや歌っているとき、はたまた周子とご飯を食べているときに、10点の取り方が神のお告げのように突然降りてくることを望んた。
私は考え事をするとき、何か別のことをしながら行うことが多かった。
時々、私の歌と踊りを見て感化されたのか、
「奏ちゃんすごく上手い。これでデビューできないなんておかしいよ」とアイドル仲間の子が彼に申し出ることがあった。
彼はそのたびに困った顔をして女の子を宥めた。早くて5分長くて15分ほどで説得が終わると、
レッスン室を貸し切り、「踊れる?」と私に尋ねた。
そして私が踊り終わると、決まって「90点」と彼は言った。季節は春になったというのに私には春は訪れていなかった。
「奏、暇でしょ?」
サビ前のステップを確認していると、周子が声をかけてきた。
「見てわかるでしょう?今、ステップの確認をしているの」
少し不機嫌さを顔に出して私は言った。生理中でもないのに、最近の私は不機嫌だった。
答えを教えてくれない彼に、そして、答えを見つけられない私自身にも。苛立ちと焦りが私に剣と鎧をまとわせていた。
「そんなのいつでもできるやーん」
私の冷たい態度にも周子はいつもどおりだった。
パフェだのコーヒーだの、そういった甘い言葉を口にして私の袖をつかみ、私を揺さぶった。
しばらく抵抗してみたが、周子が駄々をこね続けるので、周囲の目も相まって結局私が負けた。
乱れた呼吸と髪を整えてレッスン室を出ると、カフェがある場所とは別の方向へと周子は歩き始めた。
「ちょっと!カフェはこっちでしょ!」
「今日は街のカフェまで出たい気分なんだー」
なんか新作が出たみたいなんだよねーと周子は今から食べる予定の飲み物の名前を口にした。
何種類ものカタカナが組み合わされた複雑な名前からはリンゴが入っていることしかわからなかった。
私は肩をすくめてため息をついた。
周子にとって、そのアップルなんとかという飲み物を今から私と飲みにいくのは決定しているみたいだった。
「わかった!わかったからせめて着替えさせて」
「しょうがないなー」
周子は嬉しそうに笑った。アップルアップルとはしゃいでいる周子を見て、私はまたため息をついた。
大通りに面した喫茶店は休日ということもあり、私たちのような若者で溢れかえっていた。
水面を打ち続ける滝のように、店内は絶え間なく騒がしい音が鳴っていた。
会計を済ませると、ちょうど一つテーブル席が空いたので、二人でそそくさとそこに座り、鞄を下ろした。
「奏は休日なにしてるのー?」
周子は小さなスプーンで器用にリンゴジュースの上のクリームをすくって口に運んだ。彼女がいう飲み物はいつも上に甘いものが乗っていた。
「そうね。レッスンかしら」
「真面目か!」
すぐに鋭いツッコミが入った。そういえば京都出身だったわねと思いながら、コーヒーに口をつけると微妙な違和感を覚えた。
そういえばここ最近、事務所内のカフェでしかコーヒーを飲んでいなかったと思い出した。
「じゃあ、アイドルになる前は?」
「そうね。授業の予習と復習かしら」
「真面目か!」
彼女はツッコミ上手だった。私の欲しいタイミングで適切な言葉を口にするのに長けていた。
周子との会話はリズムがよく、ユーモアにも富んでいた。口ではなんだかんだ言いながらも、私は周子との時間を楽しめている。
「ふふ。冗談よ。そうね。映画見たり、本を読んだりかしら」
「どんな本読むの?」
ヘッセやカフカといったカタカナを並べると案の定、周子は目をくらくらと泳がせた。
「そうね。恋愛映画以外は見るわ。邦画を洋画も」
私が比較的、誰でも知っていそうな映画のタイトルを挙げると周子は「ほんとに?」と目を輝かせて食いついた。
あまりにも予想通りの反応だったので、私は周子から目を逸らし、必死に笑いをこらえた。
「じゃあ今から映画見にいこう!決定!」
「なんで今からなのよ?」
「え?だって暇でしょ?」
「あなたねぇ……」
私が呆れた態度で言ってみせるも周子はおかまいなしだった。
スマホで上映中の映画を調べて「これなんかどう?」と私にタイトルを見せた。
駅の電車案内板が自動的に変わるように、周子の中の予定は私とお茶することから、私と映画を見に行くことにクルクルと変化したようだった。
「早く早く」と周子が私を急かした。気づけば周子のリンゴジュースは空になっていた。どうやら私待ちのようだった。
こんなことになるなら私も甘いものを頼むべきだった。
そんな思いを苦いコーヒーと共に一気に飲み込んで、仕方ないわねと私は頷いた。
夜、ふと目が覚めた。時間を確認すると1時を超えていた。
そういえば今日は早く帰ってきたから、少し寝てしまったんだっけ。と映画を見に行ったことを思い出した。
アクションが凄かったことと周子がすごくはしゃいでいたことは覚えているが、シナリオはすっかり忘れてしまっていた。
目を瞑って再び眠りに入ろうとしたが、寝付けなかった。
暗闇の中からダンスのことが浮かんで離れなかった。昼間楽しかった分の反動か、私の頭はよく冴えた。
考え事から逃れるように、適当に服を着こんで家を飛び出した。4月中頃にしては冷える夜だった。
コーヒーでも買いに行こうとコンビニを目指した。
かしゅっと音が鳴って、一気に飲んだ。口の中に、店で飲むコーヒーとは異なる独特の匂いが充満した。
久しぶりに飲む缶コーヒーはあまり美味しいものではなかったけれど私に落ち着きを与えるには十分だった。
思い返せば、夜に出歩くのも久しぶりだ。見渡すと、モミジは花をしっかりつけていて雪は跡形もなく消えていた。
それでも私にはいつもと同じ夜の景色に見えた。花はついていないし、雪は積もったままだった。
何年もかかって降り積もった雪は一生溶けないようにも思えた。
「何やってるんだ?」
久しぶりにきいた低い声だった。
「こんな夜にか」
彼は小さく微笑むと私の横に座って、煙草を左手に持ち直した。
「えぇ。お昼寝したら、こんな時間に起きてしまってね」
「そうか」
それきり彼は何も言わなかった。私の横で黙って煙草をふかし、空を見上げていた。
目の前で燃える煙草のように、私の気持ちだけがじりじりと焦がれていった。
彼が何本か煙草を交換するのを見届けて、ついに私は堪らなくなり口を開いた。
「ねぇ。……それ美味しいの?」
「これか?」
彼は煙を吐くとまじまじと煙草を見つめた。
「美味しいと思ったことはないな」
「ならどうして吸っているの?」
彼はうーんと言いながら煙草を吸った。二人して彼の吐いた煙の行く先をぼんやりと見届けた。煙が見えなくなって彼が言った。
「落ち着くからかな?」
「ニコチン中毒なの?」
「たぶんそうじゃない。昼間は全く吸わないし」
「じゃあなんで夜は吸うの?」
お互いに顔を見合わせた。彼はきょとんとしていた。そんなこと今まで考えたことがなかったという表情だった。
彼は目を閉じてゆっくりと煙草を吸った。
「煙草を咥えて夜空を見つめるとな、昔の人もこうやって考えてたんだな、と思えるんだ」
私だけにではなく彼自身にも説明しているような、思考の海の中から言葉を一つ一つ手探りで選んでいるような慎重な話し方だった。
「煙草を吸いながら月を見て考え事をすると、親近感がわくんだ。俺だけじゃない。何人もの人が同じ道を歩いてきたんだと思えるんだ」
そこまで言うと彼は空を見上げた。雲一つない空に欠けた月が浮かんでいた。
彼の説明は、やはりどこかわかりにくかったけれど、それでもなんとなく彼のいうことは理解できた。
「ねぇ」
「なんだ」
「私に足りないものって何?」
彼は月から私に視線を戻した。私はすがるような思いでじっと彼を見つめた。しばらくの間、私たちは見つめ合った。
彼は考えていた。悩んだ表情を浮かべていた。私をアイドルにスカウトしたときの彼の顔を思い出した。
私のことを考えているのか、それとも何か別のことを考えているのか、私にはわからなかった。
「……来週の土曜日空いてるか?」
彼はそう言うと煙草を消した。踏みつぶされた煙草の先端から茶色の葉がグロテスクに飛び出した。
手持ちの煙草が全て尽きたのか、新しいのを取り出そうとはしなかった。
「土曜日はレッスンの予定だけど」
「レッスンはまた今度すればいい。朝の9時に事務所に来てくれ」
私はこくりと頷いた。
煙草買ってくる、と言って彼は立ち上がった。私はベンチに座ったまま彼を見届けた。
彼の背中は相変わらず寂しくて、けれど悲しい気持ちにはならなかった。
土曜日、約束の時間の5分ほど前に事務所に着くと、既に彼は正門の前で待っていた。
私の顔を見つけるなり、「速水さんこっちこっち」と大げさに手を振って私を車に乗せた。
「それで?今日はどこに連れて行ってくれるの?」
窓の外では木々は生い茂っていて、鳥たちは電線の上で群れをつくっていた。彼らは冬があったことをすっかり忘れているようだった。
彼はとてもまじめに運転に取り組んでいた。背筋をぴんと伸ばして、両手でしっかりハンドルを握っていた。
私が聞くと助手席の方に目を向けることもなく、
「言ってなかった?塩見さんのライブだよ」
「周子の?初耳だわ」
周子からも彼からも聞かされたことはなかった。
もっとも、本当はライブを行うという類いのサインは出ていて、それに私が気づく余裕がなかっただけなのかもしれないけれど。
コインパーキングに車を止めて、少し歩いた。特に会話もなく、私は前を歩く彼の背中を見つめていた。
まるで手入れされた日本人形のように、今日も彼はスーツを気持ち悪いほど完璧に着こなしていた。
3分ほど歩くと目的の場所についたのか彼が立ち止まった。
「ここだよ」
「……ここなの?」
思わず聞き返してしまった。よく言えば、華奢な、可愛いらしいつくりの。悪くいえば、安っぽくて小さい。
地下アイドルがライブを行うようなライブハウスで、トップアイドルである周子がライブを行うような場所ではなかった。
重たい扉を開けると中は満員のバスのようだった。
人波を押しよけて出来た微かな隙間を、彼は前へ前へと迷いなく進んでいった。
はぐれないようにと私もぴたりと彼の背中についていく。
「あれ奏じゃん?それにPさんも」
狭い控室の中では周子がメイクを整えていた。青色の着物姿だった。派手に露出した真っ白な肩と足が艶めかしく光っていた。
他には周子の担当プロデューサーさんと数人のスタッフさんしか見当たらなかった。共演者は誰もいない周子一人のステージらしい。
「うちの速水に塩見さんのライブを見て、勉強させようと思ってね」
「えぇー。ならもっと前に言ってよー。緊張するやん」
周子はけらけらと笑った。いつもどおりの砕けた態度で、私には全く緊張していないように見えた。
彼は周子の担当プロデューサーに頭を下げると話を始めた。
予算や企画といった難しい話だったので、とり残された私と周子も鏡越しに会話を始めた。
「ライブをするなんて聞いていないのだけれど」
「聞かれてないんだもーん」
「緊張は?」
「してるよー」
周子は鞄から飴を取り出して一粒口に放り込んだ。いる?と目で聞いてきたので私は首を横に振った。
「まぁ、奏の参考になるかはわからないけどさ、ちゃんとやるから見ていってよ」
「えぇ。言われなくてもしっかり見るわ」
「それはそれで緊張するなー」と左右のほっぺに飴玉をコロコロ行き来させながら周子は笑った。
「じゃあ周子そろそろいこうか」
周子のプロデューサーが時計を見ながら言った。私の彼と同い年らしいのだけれど、彼より少し幼い見た目をしていた。
「ん、りょーかい」
花魁のような和風のメイクを施した周子は席を立って、塩Pさんに手を差し出した。
そして二人はハイタッチを交わした。二人の慣習のようだった。ぱんと心地よい音が楽屋に響いた。
二人はそのまま部屋を出ていって、後ろにスタッフさんが続いた。静かになった楽屋に私と彼だけが残った。
「速水さんは客席の方から塩見さんを見ておいで。ライブが終わったらまたこの楽屋に集合で」
と彼が言った。
観客席は先ほどと同じで、すごい人の数だった。むしろ私たちがこのライブハウスに入ったときよりも増えていた。
ぎゅうぎゅう詰めの空間に汗の臭いと喧騒が入り混じっていて立ちくらみを起こしそうになった。
私もステージの裏から見たいと言うべきだったと考えながら居場所を求めて彷徨っていると、ステージからかなり離れた場所に女の子たちのグループがあった。
男の人たちは女の子のグループと少し距離を置いているのか、それとも周子をすぐ近くで見たくて前へ前へ状態なのか、そこだけ場所に余裕があった。
少しステージが見づらい場所ではあったけれど、私はこの女の子たちの一歩後ろで厄介になることにした。
手に入れた安息の地に、ふぅっと息を漏らしてから、会場内を見渡した。
「お前、この前の周子ちゃんのテレビ見たか?」と熱く語る男性ファンの声や
「これこの前周子ちゃんのつけてたブレスレットなんだ」と嬉しそうに言う女性ファンの声が会場内で溢れていた。
会場の中のみんなが周子のことを考え、話していることを凄いと思うと同時に、
シンデレラである周子に、この会場はやはり狭すぎるように思えた。
明かりが落ち、会場内に周子の声が響いた。さっきまで活気に溢れていた客席は嘘のように静まり返った。
「ライブが始まる前に周子ちゃんとのお約束。みんなに楽しんでいってもらいたいから、周りの人の迷惑になることは控えてね。
守れなかった人には八つ橋大量に買ってもらいまーす」
前の女の子たちがくすくすと小さく笑い声を漏らした。
「それじゃあ今日はよろしくねー」
声だけのMCが終わり、舞台の袖から周子が姿を現した。照明が一斉に周子に注がれて、会場のボルテージが一気に上がった。
みんながそれぞれに大きな声で、周子への思いを叫び始めた。
「声援ありがとー。みんなが応援してくれたから、あたしシンデレラになっちゃったよー」
ステージの上から周子が語りかけた。会場は再び沈黙に包まれた。
「だから今日はね。感謝の気持ちを伝えます。初めてあたしが魔法にかかったこの場所で、魔法をかけてくれたみんなに、今度はあたしが魔法をかけようと思いまーす」
周子はそこまで言うと、目を瞑った。瞬間、空気が変わった。
周子から観客席へ。そして私に。張りつめた空気が伝染していく。和楽器とギターの音が会場に響き始めた。
「聞いてください。青の一番星」
ステージが始まる前、楽屋で周子にちゃんと見ておくと宣言したのに、
ステージが始まったとたん、周子との思い出が走馬灯のように私の頭を駆けまわった。
「あたしもしゅーこでいいよ」「奏のことみたらお腹すいたーん」「真面目か!」
記憶の中の周子は、いい加減な性格で、よく甘いものを口にしていて、ツッコミが上手な子だった。
ダンスも歌もとりわけ上手いというわけではなく、私と同じくらい、(もしくは少し私の方が上手なくらい)の実力だったはずだ。それなのに……。
あれは幻想だったのだろうか。今までみてきた周子は偽物で、こっちが本物の。
自分の目をごしごし拭った。景色は変わらなかった。どうやら夢ではないらしい。
まさに狐に化かされたような感覚に私はつつまれていた。
「ほら!もっと声出して!」
周子が叫んだ。あまりにも鋭く周子の声は響いて、「奏」と名指しで呼ばれたような気さえした。
記憶の中の周子は一気にかき消され、私は意識をステージの周子に向けた。
おたけびのような声や黄色い声が一体となって、周子にエールを送っていた。周子もそれに応えているようだった。
周子の汗や思いが目の前ではじけ飛んでいた。青の着物は楽屋で見たときよりも輝いて映った。
思いが周子から観客席へ、そして私に伝染した。
身体中が熱くなっていく。周子に魅せられていく。圧倒的なパフォーマンスだった。
それからは夢中だった。曲が終わるまでずっと周子を目で、頭で、全身で、追いかけた。
曲が終わり、周子が舞台の裏へと消えるとようやく頭が回り始めた。会場はまだ周子が起こした熱気に包まれていた。
敵わない。心の底からそう思えた。
私には今のダンスは踊れない。
「ライブの後はいつもプロデューサーと打ち上げするんだー」
と周子が言うので、私と彼も同席させてもらうことにした。
お酒を頼もうとする周子を塩Pさんが止めて、4人ともウーロン茶で乾杯をした。
「ねぇ周子」
彼と塩Pさんが仕事の話を始めたので、私は横で串カツを頬張っている周子に改めて話しかけた。
「んー?」
「さっきのライブのことだけれど」
「どうしたん?もしかして感動した?」
「えぇとっても。それでね……」
「うん?」
仕事の話に熱中する彼らに聞こえないように、私は周子に近寄って小声で尋ねた。
「どうすればあんな素敵なライブが出来るか教えてほしいのだけれども」
周子は「んー」といかにもな考えるふりをした。
そして私が黙って周子の言葉を待っていると、何を思ったか突然お皿に残っていた数本の串カツを一気に口に入れた。
「あー!周子!!おれまだ食べてないのに!」と塩Pさんが叫んだ。
「ねぇ奏」
ウーロン茶でカツを流し込み胸のところを何回か叩いてから周子が言った。
「この後、デザート食べにいこ」
事務所のカフェまで戻るのも面倒だったので、そのへんの店に適当に二人で入った。
この前、街に出かけたときに入った店と同じ系列の店だったけれど時間が時間なので、混んではいなかった。
「ブレンドコーヒー二つ」
と周子が言った。迷いのない、前から決めていたような言い方だった。
「食後のデザートはいいの?」
「うん。今はそういう気分じゃないし」
口調はいつも通りの周子のそれだったが、
まとっている雰囲気は先ほどのライブのときに見せたトップアイドル塩見周子を彷彿とさせた。
「あたしさ。不真面目だったんだよね」
奥のテーブル席に座り、お互いコーヒーを一口飲むと、周子が口を開いた。
相槌を打とうとしてやめた。この会話にはツッコミもユーモアも必要ではないと瞬時に判断した。
「適当に過ごして、適当に大人になって、実家の和菓子屋の看板娘として生きていくんだ。って思ってたんだ」
私は黙って頷いた。
「そしたら親に家を放り出されちゃってさ。それで途方に暮れている時にあの人に出会ったんだ」
周子は財布から紙切れを一枚取り出した。「宝物」と彼女は言った。塩Pさんの名前が書かれたシンプルなデザインの名刺だった。
アイドルには興味なかったけど、それで寝るところと食べるところに困らないならって、あたしはアイドルになった」
「そんなあたしにあの人は真剣に向き合ってくれた。
アイドルのことも社会のことも全くわからないあたしに、たくさんのことを一から丁寧に教えてくれた。
ときにはあたしのことで、お偉いさんに頭を下げていることもあった」
「休日はあたしを『こういうのも役に立つことがあるから』とどこかに連れて行ってくれたりもした。そしたらある日思ったんだ」
「何を」と私は聞いた。
「この人の期待に応えたい。あたしにたくさんのものをくれたこの人に、何か少しでも返せたらって。
だからあたしはあの人をトッププロデューサーにするために、あの塩見周子のプロデューサーって言われるようにするために、アイドルをやってるんだ」
周子はコーヒーを一気に全部飲んだ。
「苦いね」と笑うその顔は、甘いものを食べているときに浮かべる幸せそうな笑顔だった。
そしてその笑顔は今までみた周子の笑顔の中で一番素敵な笑顔だった。
次の日から私は、レッスンはほどほどに、他のアイドルの子たちに積極的に声をかけた。
周子と3人で事務所の近くのファミレスまでランチを食べに行ったり、ときには二人きりでカフェでお話したりした。
周子はそんな私の様子を見て「奏が稀代の女たらしになった」と冗談っぽく嘆いていたが、私はそれこそなりふり構ってなどいられなかった。
出身地を聞いたり、アクセサリーや身体のパーツを褒めたりと、
まさにナンパのような会話の中でさりげなく私は「どうしてアイドルをやっているの?」と女の子たちに尋ねた。
私の突然の問いかけに、彼女たちは顔を少し赤らめながらも、ちゃんと話をしてくれた。
前からアイドルに憧れていた子、スカウトされて始めてみたらアイドルの世界に魅了された子、
担当プロデューサーさんのことが好きで、ずっと傍にいたい子、印税生活を送るために頑張っている子。
まさに十人十色だった。彼女たちひとりひとりに、ひとりひとりの様々な理由があった。
彼女たちが語る話の大半はウィットに富んだものではなく、
ときには異国の言葉を話す時のようなたどたどしい話し方のもあったけれど、話に飽きるということはなかった。
彼女たちが紡ぐ物語を私は一言一句逃さずに最後まで聞き取った。
そして話が終わるころには、私は彼女たちが浮かべる幸せそうな笑顔に自然と惹きつけられていた。
私に足りないのはやる気や覚悟、思いの強さだったのだ。
なんでアイドルをやっているかを答えられないものに、アイドルをやる資格はなかったのだ。
彼女たちとの話を終え、レッスンに向かう彼女たちの背中を見届けると私はコーヒーをもう一杯おかわりした。
彼女たちの名残か、カフェテラスでは暖かい陽射しが注ぎ、鳥たちが春を歌っていた。
じゃあ私は何のためにアイドルをやるのだろう。どうやったら輝くことができるのだろう?
何か参考にできるものがあれば、とみんなの話を思い出した。同時に、私には眩しすぎるほどの素敵な笑顔も浮かんできた。
彼女たちはとてもキラキラとしているものを持っているのに、私には何も見つからない。
まるで数学の証明問題のようだった。答えはわかっているのに、そこにたどり着くまでの方法がわからなかった。
みんなは当たり前のように解けているのに私だけが解けなくて、私だけが次の問題に進めていなかった。
自分の頭の悪さを嘆いた。いっそのこと本当に馬鹿になりたかった。考えることをやめたかった。
それとも、私も彼のために頑張ってみる?
頭が動くことに期待してコーヒーに口をつけると、
悲鳴を上げそうな頭にまるで神様のお告げのように周子の言葉が浮かんできた。
もう一口身体に入れて、彼のために輝けるか?と真剣に考えてみたけれど、無理そうだった。
確信をもって言えるわけではないけれど、彼女たちの多くがそうであるのとは異なり、私は自分の担当プロデューサーに恋をしているわけではなかった。
それでも一度浮かぶとまるで憑りつかれた様に、私の情けない頭は彼のことしか考えられなくなった。
ビニール傘を私に差し出した彼。月を見上げながら煙を吐く彼。私の隣に座る彼。
私はコーヒーを一気に飲み干した。ほのかに熱が残っていて、次第に上品な甘みが口の中で広がっていく。
急に泥臭い缶コーヒーが飲みたくなった。
奇妙な夜空だった。月の周りにだけ雲がぴったりと着いていて、月と同じ速度で移動しているようだった。
星は鮮明に見えるのに、月はまるで臆病な動物のようで、ときどきしか顔を見せてくれなかった。
月は今日も欠けていた。満月へと変化していくのだから、どんどん満ちているはずなのだけれど、私には違いがわからなかった。
公園のベンチに座り、缶コーヒーで暖をとりながら彼を待った。
ぼっとしていると溺れてしまいそうになるので、月の顔を伺いながら星を数えることにした。
夜空のいたるところに散りばめられた星を私は一つ一つ数えていく。
願わくは、缶コーヒーが冷める前に、もしくは星を全て数え切った後に、私を迎えに来てほしい。
「何か用か?」
星を30ほど数えると、低い声が聞こえた。手の中の缶コーヒーは少し冷めてしまっていた。
星空から顔を戻すと彼が立っていた。私が待っていたことに驚きの表情もみせず、私の顔を覗き込んでくる。
「わかったけど、わからないの」
私らしくない言葉がでた。唐突で、冷静さも欠けている。
彼の顔を見た途端、私の中で何かがぷっつりと切れたようだった。
私の口から飛び出したわけのわからない言葉に,彼は「そうか」と言って、横に座った。
「足りないものが何かはわかったの、でもそれを手に入れる方法、見つけ方がわからないの」
声も自分のものとは思えない、感情的な、余裕のない声だった。それほどまでに私は弱っていた。
彼はそんな私をじっと見つめていた。そしてときどき思い出したかのように煙草を吸った。
「アイドルは好きか?」
と彼がきいた。周子を始めに、みんなの顔が頭に浮かんだ。
私がアイドルに向いているかはわからなかったけれど、それでも私はこの場所を大切にしていきたいと思えるようになっていた。
「嫌いではないわ」と私は答えた。
「そうか、なら大丈夫だ」
何が大丈夫なのかわからなかった。私はこんなにも悩んでいるのに。困惑した私に彼は優しく笑った。
「夜のアイドルはな、灰かぶりなんだ」
唐突に彼が言った。指で煙草を軽くたたき、私の目の前で灰がぱらぱらと地面を覆っていった。
「昼に憧れていて、本当は自分も輝きたいんだ。でも輝き方を知らない。
他のみんなはドレスを着飾って、舞踏会に参加するのに自分は参加できないんだ。
でも本人は輝きたいと思っている。それでいい。輝きたいと思うことこそがまずは大切なんだ。
今は答えが見つからなくても、ゆっくりと探していけばいい。その気持ちを忘れなかったらいつか輝くときがくる」
身体が震えた。寒さではなく、彼の言葉で。
今まで映画や本で数々の名言に触れてきたが、そのどんな言葉よりも彼の言葉が私の心の奥に響いた。
魔法の言葉だった。例えるならたった一度のプロポーズの言葉のような。
この言葉は私と同じ匂いのする彼にしか言えなくて、彼と同じ匂いのする私にしか受け取れない。
彼の言葉のいたるところに私への理解、優しさが、星のように散りばめられていて、私はその言葉の美しさに、温かさに、心を揺さぶられてしまう。
やっぱり……。彼の言葉は初めて彼に会った時のことを思いださせた。
寂しげなモミジの木。むなしく光る街灯。ぽつぽつと傘を叩く雨音。ゆらゆらとゆれる煙。
そして、冷たくて暖かい彼の背中。
まるで映画のワンシーンのように、それらの光景が鮮明に私の中に浮かび上がってくる。
やっぱりこの人も私と同じ弱い人で、それでいて優しい人なのだ。
私の弱さをわかってくれて、その上で私のことを受け入れようとしてくれている。
「ねぇ」
「なんだ」
「手、握ってもいいかしら」
「……あぁ」
私はゆっくりと手を伸ばし、彼の右手を握り、ぎゅっと力を込めた。つないだ手から彼の温度が伝わってきた。
彼の手は冷たくて、私によく馴染んだ。冷たさも二人分ならどこか温かい。そう思えた。
私の中で積もっていた雪が溶け始め、涙となって一気に溢れてきた。
もう離さないようにと私は彼の手を力強く握った。彼も痛いほどしっかり私の手を握り返してくれた。
この手をきっと離れない。離さない。この人となら私はずっと生きていける。
強く繋がれた手を見てそう確信した。つないだ手と手が運命の赤い糸のようにも真っ黒な手錠のようにも見えた。
私の泣き声と煙草のじりじりと燃える音が夜に優しく包まれた。
「おつかれさまです」
彼がレッスン室に入ってきた。昨日のことを忘れてしまったのか、もしくは何とも思っていないようだった。
恥ずかしくて目を背けた私に対して、彼は不思議そうに首を傾けた。
「踊れる?」
レッスン室の利用時間をトレーナーさんに確かめてから、彼が私に訊ねた。
「えぇ」と私は頷いた。彼の前で踊るのはずいぶん久しぶりのことに思えた。
本番の雰囲気に寄せる、と彼が言ったので、レッスン室の明かりは最小限に減らすことになった。
カーテン閉じ、外の光を遮って、照明を一度落とした。ここだけ一足早く夜の帳が降りてきた。
「こんなものかな?」と部屋の電気の量を調節しながら彼が言った。僅かな明かりがスポットライトのように鏡の前を照らした。
「大丈夫じゃないですか?じゃあ奏ちゃん、私とPさんは部屋の後ろで見ているから」
とトレーナーさんが言って、彼らは部屋の後ろに、私は光の下へと歩き始める。
水に映した月のように、ぼんやりとしか姿が見えなくて、彼がどんな表情をしているかわからなかった。
暗い鏡の中に私だけがはっきりと映っていた。不思議な光景だった。私しか映っていないのにトレーナーさんも彼も確かにここにいる。
見慣れたはずの景色なのに、今までとは違う景色だった。静寂の中、瞳を閉じて、呼吸を整えた。
「いいわ。始めて」
曲が鳴り始めた。
踊り始めてすぐに変化を感じた。
ここ数日、レッスンの時間を減らしていたのでちゃんと踊れるか不安だったが、身体は振り付けと歌詞を覚えているようだった。
まるで呼吸をするように私の身体は自然に踊っていた。
必死に次のステップのことばかり考えていた頭も今日は違う。
急いで答えを求めなくていい。私は一人じゃない。軽くなった頭が私にそう優しく告げていた。
身体と頭が相乗効果のように、私を軽くさせていた。
軽い。身体が。頭が。ずっと踊っていられそうだった。
楽しい。歌が。踊りが。ずっと踊っていたい。
鏡の中の自分と目があった。
まだまだ彼女たちには到底及ばないかもしれないけれど、鏡の中の私はとても素敵に笑っていた。
「奏ちゃん良かったよぉ!!」
部屋の明かりがついてすぐ、トレーナーさんが私の元に飛び込んできた。
彼女は泣いていた。涙がぽつぽつと私の身体に降り注ぐ。誰かのために流れた涙はとても温かいものだった。
「95点」
トレーナーさんが泣き止むのを待ってから、彼は私の方に歩み寄ってきた。
彼は笑っていた。私も笑った。
まるで魔法のように、彼が次にいう言葉がわかった。
「あと5点はこれから探していけばいい」
私はついに階段を上り始めた。
質問、感想等、あればこれからに活かすので何かあればどうぞ
私のデビューライブは上出来な物だった。
彼がプロデュースするアイドルということで事務所が大々的に宣伝してくれたのもあり、
周子のライブの時と同じくらいの大きさの会場に、(周子のライブほどではないけれど、それでも新人のライブにしては多すぎるほどの)
たくさんの人が集まった。
私のライブを見た、とあるライターの方は私のことを、
「クオリティの高いダンスと歌唱に裏付けされた自信に満ちたパフォーマンス。
しかし表情はまるで壊れやすいガラス細工のように美しく繊細であった。
彼女が何を見ているのか、何を見ようとしているのか、何を見せてくれるのか、とても興味深い」
と評した。儚げ。ミステリアス。それがアイドル速水奏の代名詞になった。まさしく彼の予想したとおりだった。
彼と一緒にいる時間が増えて気づいた。
彼は優秀な人だった。
ライブが終わり、私の名が話題になるとすぐにたくさんの仕事をとってきた。
例えば周子のラジオ番組にゲスト出演させるなどして、私の名前をさらに売ると同時に、私に仕事の内容を覚えさせていった。
自分でも実感できる異例の速さで私はトップアイドルへの階段を駆け上っていった。
彼はモテる人だった。
助手席から見る彼のネクタイは毎日、紺のストライプで、シンプルな銀のネクタイピンがつけられていた。
男物の服への理解が少ない私でもわかった。誰かに贈られたものだと。
さりげなく送り主を尋ねると、凛と楓さんの名前が返ってきた。
「奏もアタックしたら?」
私がそのことを話すと周子はそう返した。蒸し暑い夏の日のことだった。外の喫茶店でお茶をするとファンがかけつけ、騒ぎになるかもしれないということで、私たちはよく事務所のカフェで話をしていた。
私が聞き返すと、周子はどうやら適当に返事したらしい。
いかにも周子らしい、「うーん」とか、「その」といった曖昧な答えが返ってきた。
私の話よりも今は目の前のパフェの方が彼女にとって大切なようだった。夏季限定のオレンジパフェを前に周子の目はひときわ輝いている。
「ひどいわ周子。親友の話よりもパフェの方が大切なのね」
「わかった!わかったから!ウソ泣きやめて!」
その後も何度か適当な返事が返ってきた。どうやら食べ終わるまで話は進展しないらしかった。
甘いものは別腹というけど、周子にとっての甘いものはもはやデザートではなく、メインの食事のようだった。
「それで、さっきの話だけど」
周子はパフェを食べ終え、紙ナプキンで口を拭くとようやくしゃべり始めた。
テーブルの端に置かれたメニュー表へと視線と手を泳がせたので、周子にとられる前にメニューをとった。
周子は悔しそうに。私はきっと憎たらしい笑みを浮かべているに違いない。
「アタックしたらいいじゃん」
口を膨らましながら周子は言った。
パフェに負けた私の方がほんとうは拗ねたい気分だったが、話が余計に進まなくなりそうなので、コーヒーと共にその思いを飲み込んだ。
そもそも彼のことを好きと言った記憶も好きになった記憶もないのだけれど、
と付け加えても、周子には聞こえなかったらしい。
おかわりを頼むことを考えているのか、はたまた私のことを真剣に考えてくれているのか、
うーんうーんと少し唸ってから、周子はぱちんと指を鳴らした。「キスをせがむとか」
「キスですって?」
つい声がうわずった。慌てて、こほんと咳をはらい落ち着こうとするも、
「あれ?奏、何その反応」
と周子にひろわれてしまった。
驚いた様子で私を見て、それから、さっき私がしていたであろう憎たらしい笑みを浮かべた。
「まさか経験ないの?」
「……プライベートな質問には答えられないわ」
「そっかそっかープライベートだから答えられないかー」
「そういう周子はどうなのよ」
「プライベートな質問には答えられませーん」
私はメニューを周子に渡さないことを心に決めた。
「まぁいいや」
周子は椅子に掛けてあったポシェットを膝に乗せ、ごそごそと何かを探し始めた。
すぐさまお目当てのものが出てこないことから察するに、小さなポシェットの中も彼女らしく、適当な世界が広がっているようだった。
テーブルの上にポケットティッシュやらハンカチやらを並べ、やっとの思いで見つけて、出した。
黒のスティックだった。キャップを開けるとシックな赤紫色の本体が現れた。
「この前、CMの撮影やったからさ、その時にもらったんだー」
「秋の新作らしいよ」と周子は混沌としたポシェットから今度は手鏡と、もう一本同じ黒のスティックを取り出した。
こちらは綺麗な真紅のルージュだった。
嫌な予感が頭を巡った。そして、そういった予感だけは昔から外れたことはなかった。
何とか話題を変えようと新しい話を振る前に、
「奏、顔貸して」
と周子に言われてしまった。
「本当にするつもりなの?」
「当たり前じゃん。奏をキスしたくなる顔にするんだー」
周子は楽しそうにリップスティックを人差し指と中指に挟んで回している。
彼にアタックするという話から、私をキスしたくなる顔にするという話へと超展開していたのだけれど、周子といるとよくあることだった。
そしてこうなった周子は止まらないことも私はよく知っていた。
「リップクリーム持ってる?」と周子が聞くので、やれやれと思いながらも、鞄からリップを取り出して周子に手渡した。
「じゃあまずはリップから塗っていきます」
料理番組のような説明口調で周子は言うと、向かい合わせに座っていた席を移動して、私の横に座った。
「リップくらい自分で塗れるわ」と抵抗する私を、
「いいからいいから」と制し、「はい。力抜いてー」と真っ黒な瞳で覗き込んでくる。
周子の顔が目の前に……。
思わず私は勢いで、そのまま周子から離れてしまった。
周子が不思議そうに首をひねる。
「なんでもないわ」
「そう?じゃあリラックスしてねー」
周子はそういうと私の口にリップを塗り始めた。顔の位置を固定するためにと周子の手が私に優しく触れた。
周子の白い肌と整った顔つきがいやでも目に入った。私は目のやり場に困ってしまった。
普段があまりにもお調子者すぎるので、そういった目では見ないけれど、
改めてみると、女の私から見ても、やはり周子は魅力的だった。
夏の暑さのせいか、触れている周子の手から熱が伝播しているのか、私の身体はどんどん熱を帯びていく。
さながら恋に疎い男子学生のように、周子の一挙一動にあたふたしていると周子と目があった。
周子の瞳は真剣な目つきで私の顔を見つめていた。
周子の黒い瞳の中で、私は溺れそうになっていた。
このままではまずいと目線を逸らそうとしたその時、
周子は私の動揺も知らずに、にっこりと笑ってみせた。私はそこでノックアウトした。
からっとした夏の風が吹いて、周子の髪の匂いが私の鼻をくすぐった。
耳を澄ませると、周子の息をする音が聞こえてきた。
私はよく天然の女たらしだと周子に言われるが、周子もよっぽどの女たらしだ、と私は思った。
「出来たよー」
恐る恐る目を開くと、きつく閉じたせいか、視界は少しぼんやりとしていた。
周子はルージュをポーチにしまっていて、さっきまで近かった顔の距離は離れていた。
「ほらほら。いい出来でしょ?」
褒められるのを待つ子供のように周子が嬉しそうに手鏡を私に見せてくる。
定まり始めた焦点で私は鏡を覗き込む。鏡の世界の私には、大人のドレスのような、上品な赤が丁寧に施されていた。
「随分、上手ね」
気恥ずかしさをなんとか飲み込んで私は言った。
「まぁ、取材のときにみっちり教えられたからね」
「秋は派手な色のルージュがよく発売されるんだけど、これはおとなしめの色に作られてるん。
だから奏みたいな目立つ子が引くと、上品な感じがするようになるとか、なんとか」
「スタッフさんにそう教わったのね」
「正解!」
周子はひとしきりけらけら笑うと、「じゃあPさんに見せにいこっか」と言った。
「本当に見せに行くの?」
「大丈夫大丈夫。すごく似合ってるから。奏のこの姿見たらPさん、がばっと襲ってくるかもよ」
「それはそれで困るのだけれど……」
「いいから!いいから!ほらいこ!」
そう言って、周子は私の手をとった。
……私の胸の音は当分止みそうにないらしい。
ひんやりとした廊下側から、クール部門の部屋のドアをそっと開けると、暑さがわっと飛び出してきた。
節電のためかエアコンは切ってあるらしい。窓は開いているけれど、風は吹いていないようだった。
多くのプロデューサーは担当のアイドルと行動を共にしているのか、席は空席が目立って、
私の彼と塩Pさんの二人が少し離れた席でデスク仕事に取り組んでいた。
「チャンスじゃん」
と周子が横でささやいた。
「いい?今からあたしが塩Pさんを呼ぶからその間に奏が。ね?」
「ちょっと待って。まだ心の準備が出来ていないのだけれど」
「なんであんなカッコいいライブが出来て、これが出来ないのさ。……まぁステージに立ったら、否応でも準備するか」
周子は呟くと息を吸って、「塩Pさーん」と呼んだ。周子の爽やかな声が事務所の中を駆けていった。
「どうした周子」と塩Pさんが席を立つのを見て、周子は「がんばってね」と私の背中を押した。
塩Pさんと入れ替わる形で舞台の上へと私は放り込まれた。
何はともあれ幕が上がった以上、もう後にはひけないのだ。こういうドラマだと思えばいい。
私は自分にそう言い聞かせ、ゆっくりともう一人の演者の元へ歩いていく。
「何してるの?」
背後から近寄って、パソコンを覗き込んだ。画面には私の名前が映っていた。
私のための新しい企画書を作っているようだった。
「なんだ、奏か」
彼は画面から目を離し、私を見上げた。企画の案が進まないのか少し疲れている様子だった。
他に誰もいないことを確認すると彼はいかにも気怠そうに大きく伸びをした。
彼は私と二人のときだけだらしなくなることがあった。第一ボタンを外し、ネクタイを緩めた。さながら没落貴族のような変身ぶりだった。
「何か用か?」
「別に用ってほどではないのだけれど」
「なんだ?俺の顔でも見に来たのか?」
彼はくっくっと笑うと、企画書のデータを保存して私に向き直った。
それほど急ぎのようではないらしく私と演劇をする時間くらいはあるようだった。
「なんだそりゃ、いつも見ているじゃないか」
私の唇の色が変わっても彼は普段通りだった。軽口を叩き、机の上のアイスコーヒーの缶を取って、ごくごくと喉を潤している。
私の変化に全く気づいていないのか、それとも気づいていて何も言わないのか。
どちらにしても彼は、女の子の売り出し方はわかっていても女の子の気持ちには疎いようだった。
それはプロデューサーとしては正解なのかもしれないけれど、1人の男としてどうなの?
そう思い始めると、さっきまで不安や緊張を感じていた自分が急に馬鹿らしくなった。
恥ずかしいといった乙女の純情はすっかりなりを潜め、
そのぽっかりと空いた感情の隙間を埋めるように、私の奥の方から、悪戯な、意地悪な、女の感情が芽生えてきた。
私は唇にわざとらしく指をあて、彼に囁いた。
「どうかしら?キスしたくなったらしてもいいのよ?」
「キス?俺が?ここでか?」
私の口から思いがけない言葉が出たことに彼は珍しく狼狽えた。
彼の方が年上なのに、私が大人の女性で、彼は純粋無垢な子供の役を演じているようだった。
彼の反応にくすりと笑い、そのまま身を寄せると彼はすごい勢いで私から離れた。
何とも言えない気持ちよさを感じた。私の嗜虐心はいっそ燃えあがった。
「えぇ。今なら誰もいないし。誰にもばれないわ。……だから、早く、ね?」
彼の目の前でかがみ、ゆっくりと、逃げ出そうとすればいつでも逃げ出せるくらいの速度で,
彼の顔のすぐ前に自分の顔を持って行った。ウィンクを決め、目を瞑り、唇を彼に差し出すポーズをとった。
真っ暗な中でパソコンのエンジンの音が聞こえてきた。
少しして彼が呟いた。予想外の返答だった。てっきり軽くあしらわれると私はたかを踏んでいた。
だからこそ、演技に熱中することができた。このパターンは私の脚本には書かれていない。
彼が言った「ありだな」という言葉が私の真っ暗な世界でひたすらリピートされた。
ごくりと喉がなった。私の音か、彼の音か、私にはわからなかった。そんなことを考えている余裕が私にはなかった。
暗闇の中から、女の感情を押しのけ、乙女の純情が再び顔を見せ始めた。
このままキスを彼に捧げていいのだろうか? こんな冗談のようなシチュエーションで。私の初めてを。
どくんどくんと心臓の音も聞こえてきた。目の前にいるはずの彼に、鼓動の音が聞こえてないか不安になった。
私はいっそきつく目を瞑って彼の出方をうかがった。
しばらくして、かたかたかた、とタイピングの音が響いた。
きつく閉じた目をゆっくりと開けると、目の前に彼の顔はなかった。彼はデスクに向き合っていた。
目をこすりながら画面を見ると、速水奏、ルージュ、冬の新作、とメモのように書かれてあって、私は思いっきり彼の頬を引っ張った。
彼の「痛い痛い」という声が蒸し暑い部屋に響いた。扉の方から周子の大きな笑い声が聞こえてきた。
「まぁ、無難にいくならプレゼントじゃない?」
避難してきたカフェで、頬を軽く膨らませ目くじらを立てている私をひとしきり笑った後、周子が言った。
「最初からそっちの案を言ってほしかったのだけれど」
「だってこっちの方が面白そうだったんだもん」
「それに新しいお仕事も貰えそうだし、奏も得したじゃん」と周子が反省の色を見せないので、
私は周子のパフェに乗っているさくらんぼをとって、食べた。
周子が「あぁっ!」と叫び声をあげた。その声を聞いて、店員兼アイドルの菜々ちゃんが何事かとキッチンから飛び出してきた。
腹の虫は完全には収まらなかったが、とりあえずこれで和解することにした。
「で?」
「うん?」
「プレゼント。何をあげればいいと思う?」
「それは奏が自分で考えなよー。Pさんなら何を貰っても喜びそうだけど」
「それもそうね」
確かに彼は何をあげても喜んで貰ってくれそうだった。
おしゃれなネクタイを贈れば紺のネクタイと日替わりで。マグカップとかを贈れば、それこそ毎日使ってくれるだろう。
でも、私の頭に浮かんでいる候補のすべてが、どれも正解ではないと私は本能的に感じていた。
どうせなら特別なものを。私らしくて、それでいて彼に本当に喜んでもらえるものを真剣に吟味する必要があった。
中途半端なものをあげると、愛情とも信頼とも呼べない私の思いと彼の思いが一瞬で陳腐なものへと腐ってしまうような気がした。
コーヒーを飲み、彼は一体何が欲しいのだろう、と考えてみたけれどまったく見当がつかなかった。
代わりに、彼のことを知っていたようで、全く彼のことを知らなかったことに気づいた。
私が考え込んでしまったのを見て、
「いっそのことほんとうに唇をあげれば?」と周子が言った。
「ばか」と私は言った。
次の日から私は彼を観察するようになった。
といっても前から見ているつもりではあったのだが、それでも改めて注意して見ると、新しい発見があった。
彼は3種類の飲み物をよく愛飲していた。緑茶と缶コーヒーの無糖と微糖だった。銘柄はいつも決まっていて、温冷はその日の暑さに応じてまちまちだった。
営業の仕事など社外の人と会う前の車内では緑茶を、仕事終わりや営業の予定がない日は缶コーヒーを飲んでいた。
朝は無糖、夕方は微糖であることが多かった。
彼は缶コーヒーを好んでいるようだった。
事務所にいるとき、他のアイドルや事務員さんが淹れてくれたコーヒーを飲んでいることはあったが、自分でコーヒーを淹れているのを見たことはなかった。 コーヒーを淹れるのが面倒なのか、わざわざ部屋の外にある自販機まで缶コーヒーを買いにいっていた。
仕事終わりにコンビニに寄ったとき、私は彼に「コンビニコーヒーは買わないの?」と尋ねた。
「コンビニコーヒーの方が美味しいって専らの評判よ」と私が言うと、
「缶コーヒーがいいんだ」と彼は首を横に振った。彼はときどき、頑固で古臭い一面を持っていた。
「それに」会計を終え、彼は私に缶コーヒーを手渡してからこう言った。
「奏もいつも缶コーヒーじゃないか」
そういえば私も彼の横では缶コーヒーを好んで飲んでいた。
彼の観察を続けていると、たまに彼が隙だらけのときに出くわす時があった。
私はそのチャンスを逃さなかった。
幸い、私が所属するクール部門は、魅力的な大人の女性がたくさん在籍していたので、誘惑の方法を習うことに困ることはなかった。
彼女たちに大人としての立ち振る舞いを尋ねると、彼女たちはとても楽しそうに、
まるで自分の子供に化粧の仕方を教えるように(彼女たちの前では決して言えないけれども)親身になって私に女のテクニックを教えてくれた。
私のおねだりの多くは不発に終わったけれど、ごくたまに彼にクリティカルヒットした。
仕事終わりの車の中、信号待ちで退屈そうにしている彼の耳元に息を吹きかけたら、彼は「ひゃあっ」と変な声をあげた。
声を抑えきれず、思いっきり笑っている私に彼は「奏、後で説教だからな」と顔を赤くして怒った。
彼は可愛い人だった。普段はとてもクールなのに、時折見せる慌てふためいた顔が最高にキュートだった。
彼の困り顔見たさに私はますます女を磨いた。
「奏、決まったぞ」
すっかり蝉がいなくなり、緑が枯れ始めた初秋、彼は私を会議室に連れ込んだ。
「この前言ったルージュの冬モデルのキャンペーンガールのお仕事だ」
彼はファイルから企画書を取り出して私の前に置いた。私の名前と『キスしたくなる唇』と書かれたキャッチコピーが目に入った。
「どうだ?引き受けてくれるか?」
「えぇ。もちろんよ」
私が快諾すると彼はほっと肩を撫で下ろし、とても美味しそうにコーヒーを啜った。
微糖だった。ここ数日間、ずっと無糖でやり過ごし、この企画をとってきてくれたことを私は知っている。
「それにしても、キスしたくなる唇ねぇ……」
「どうした?何か気になるところでも?」
「私、高校生なのだけれど、高校生相手にキスしたくなるって、まずいんじゃないの?」
彼はあっ、という顔をした。
「それだけ奏が魅力的ってことだよ」
目を泳がせながらなんとかその言葉をひねり出した。その姿がまた可愛らしかった。
「へぇ、ならプロデューサーさんにも私は魅力的に見えているの?」
「そりゃまぁね」
「そう。それは嬉しいわ。……あのね」
「何だい?」
「私、キスしたことがないの。私、プロデューサーさんになら初めてをあげてもいいと思ってるの。どうかしら?キスしたくなる唇なんでしょう?」
お決まりの流れ。私はゆっくりと寄って目を瞑った。
今日のリップの色は深みのある赤だった。昨日と色が違うことに彼が気づくかはわからないけれど。しばらくして、
「そんだけ出来るなら十分だ。じゃあ詳しく決まったらまた話す」と彼は部屋を出ていった。
もはや様式美とも言えるようなお約束の返事に「もう」と私は言った。
ルージュのCMは大成功に終わった。
高校生の私がルージュのキャンペーンガールをやることについては賛否両論出たみたいだが、そのことがかえって人々の興味をひいたようだった。
肝心の演技や魅せ方も、周子を始めに事務所のみんなが色々助けてくれて、私自身納得のいく出来になった。
結果、CMが放送されるとすぐにルージュは全国各地で品薄が相次ぎ、私には仕事の依頼が殺到した。
仕事先では、ルージュの仕事のインパクトがあまりにも強かったせいか、キスや唇について聞かれることが増えた。
「初キスの思い出は?」「理想のキスのシチュエーションは?」などなど……。そういった質問をされるたびに私は
「初キス……。なんなら貴方と今ここでしましょうかしら」「夜の海。水面に月と貴方を映しながら唇を重ねるのも悪くないわ」と、自信満々に答えをはぐらかした。
そんな私のパフォーマンスを見て彼は「奏は案外ロマンチストなんだな」と笑ったり、「アドリブが過ぎるぞ」とたしめたりしたが、世間では受けた。
大げさすぎるくらい演じたのがわかりやすくて良かったのかもしれない。
おかげさまで先日発表されたキスしてみたい女性芸能人ランキング第3位。(女性票だけだと、ぶっちぎりの1位)を獲得。
儚げ、ミステリアスといった速水奏の代名詞に、キス魔、大人っぽい、が続くようになった。
冬の夜景特集のインタビューを受け、出版社から事務所へ戻る途中の事だった。
コンビニを出ると、まるで私たちが出るのを見計らったように、冷たい秋の風が吹いた。
深緑色のカーディガンは寒さを受け止めるには少し薄すぎたので、
急いで車に戻ろうとした私と対照的に、彼は立ち止まった。
移ろいやすいと言われている秋の空をぼぅっと見つめていた。
「奏、吸ってもいいかな?」
一瞬何のことかと思ったが、彼が店の端に置かれた喫煙スペースに目をやったのを見て、
あぁ、煙草かと理解した。すっかり忘れていたけれど、そういえば彼は喫煙者だったと思い出した。
私に手渡そうとした缶コーヒーと車の鍵から缶コーヒーだけを受け取って、私も喫煙スペースについていった。
「えぇ気にしないわ」
「そうか」
彼はそう言うとスーツの内ポケットから煙草を取り出し、火を点けた。
彼が煙草を吸う姿に違和感を覚え、スーツ姿のときに吸っているのを見るのは初めてだと気づいた。
「禁煙していたわけじゃなかったのね」
「ちょくちょく吸っていたさ。なんというか、この季節になると吸いたくなるんだ」
彼は壁にもたれかかり遠くの方を見つめていた。スーツが汚れてしまうのを気にもかけていないようだった。
私は缶コーヒーを開け、彼の横で同じように壁にもたれかかり、彼と同じものを見ようとした。
澄み切った空の向こうから夕焼けの朱が差し始めていた。
再びどこからか秋の風が吹いた。一直線に空へと上がっていた煙草の煙が横に揺れた。
私たちは寒さに震えることもなく、煙越しに何かを見つめていた。
横にずれた煙は上がることなく、どんどん薄くなっていき、ぼんやりと消えた。
車の中、彼の身体に付着した煙草の残り香を嗅いでいると、
神様のお告げのように、『携帯灰皿』という言葉が私の頭にふっと浮かんだ。
それは私から彼に贈れるもので、至高の物のように思えた。彼が煙草を吸うことを知っているのはおそらく私だけだった。
「どうしたんだ?」と彼が聞くので「何でもない」と答えた。
車のミラーに映る私の顔はあどけなかった。
ルージュのシックな赤色と夕焼けの朱が見事にコントラストされていて、綺麗だった。
事務所に戻り用事を終えると、私は一目散に事務所から飛び出した。
送っていこうかという彼の好意や周子の甘い誘いを断り、勢いのまま、百貨店の紳士服コーナーに飛び込んだ。
たくさんある赤色の中から、彼にも私にも似合う色としてワインレッド(赤紫)の携帯灰皿を選び、プレゼント用にラッピングしてもらった。
茜色のリボンに包まれた彼へのプレゼントを持って外へ出ると、空の色は朱から深い藍に変わっていた。
思いっきり息を吸いこむと、ひんやりとした冷たい空気が私を満たした。
思いっきり吐くと、煙草の煙のように、私の息は空へと昇っていった。秋が終わり、冬の始まりを告げていた。
思い返すと、冬という季節は私に様々な試練を与えてきた。
冬の風が試練を運んでくるのか、それとも私が天性の螽斯体質で冬になるまで問題を自覚しないのかはわからなかったが、
私にとって冬が一番長い季節で、同時に一番考えることの多い季節だった。
彼も冬に考えるタイプの人間だった。二人きりになると彼はほぼ確実と言っていいほど、
「吸ってもいい?」と私に訊ねた。そのたびに私は「もちろん」と頷いた。
彼は身体を少し前に傾け、左手で壁を作って、火を点けた。小さな炎で暖をとっているような点け方だった。
彼も私も前世は螽斯だったのかもしれない、と思った。
煙草の匂いは嫌いでなければ好きでもないけれど、彼が煙草を吸っている姿を見るのは好きだった。
煙草の匂いが紺色のネクタイ、銀のネクタイピン、そして私の身体に付着していくのを見ると、私はとても安心した気分になった。
「奏、結局大学はどうすんだ?」
信号待ちになると彼は窓を開け、煙草に火をつけた。
ここの大通りの信号は一度赤になったらなかなか青に戻らない。彼は話を始めるタイミングを伺っていたのかもしれない。
「まだ考え中ね。行くとしても都内の私立大学になると思うけれど」
今年の試練は進学のことだった。(正確には他にもあったのかもしれないが、私には一番重要なことに思えた)
といっても私は相変わらずそこそこ優秀な成績をキープしていたし、アイドルとしての人気もでていたので学費に困っているわけでもなかった。
大学に行けなくて悩んでいるのではなく、大学に行くかどうかで悩んでいた。
「そうか。やりたいこととか興味があるものは何かないのか?」
「興味があるもの……。そうね、プロデューサーさんかしら」
微笑を浮かべ、熱い視線を送ると、「茶化すな。大事な話なんだぞ」と叱られた。
彼はいつも以上に真面目で、そして彼の言っていることがもっともだったので、
私は甘やかされて育った子供が初めて反省したときのような、小さな声で「ごめんなさい」と謝った。
先ほどの下りはなかったかのように彼が再度きいた。
「特にないわ」
実際、興味があるのはアイドルのことと彼をからかう方法くらいだった。
学問は、倫理や思想といった分野はまだましだったが、経済や化学といったものには全く興味がそそられなかった。
そういった学問は、やりたい人にやらせておけばいいと私は思っていた。
「奏、映画とか本とかに結構詳しいよな」
「事務所には私よりも精通している人がいるけれど、普通の人よりは目を通していると思うわ」
「なら文学部とかどうだ?奏なら楽しめると思うのだけど」
「何?私を大学生にしたいの?」
私が聞くと、難しい質問だったらしく、そういうわけじゃないんだけど、と彼はそのまま動かなくなった。
バッテリー切れを伝えるかのように煙草の赤い炎が何度か点滅して、それから言葉が再開された。
「なんというか、奏には広い世界を見てほしいんだ」
「私に?」
「あぁ」
彼は溜まっていた煙を一気に外へと吐きだした。
「事務所のみんなだけじゃなくて、大学の友達や教授、
他には漱石だったりマルクスだったり、そういった人たちに触れることで自分を高めていってほしい」
「まるでお父さんみたいなことを言うのね」
「まぁプロデューサーだしな。たまには堅い話もするさ。でも誰にでも言うわけじゃない。奏だから言ってるんだ」
「私だから?」
「あぁ」
そう言うと煙を大きく吸い込んで、名残惜しそうに吐いた。
そしてボトルホルダーに差したままの空き缶に吸殻を捨てた。信号が青に変わった。話は終わり、車が走り始めた。
しばらくたって、私は進学するつもりであるという旨を彼に伝えた。車の窓から見える冬の空は高かった。
「それはよかった」
彼は私の大学進学を心の底から喜んでいるようだった。にっこりしながら吐きだす煙はどこか軽やかだった。
「アイドルの仕事はどうする?大学生活になれるまで少し減らしておくか?」
「別に問題ないわ。ひとり暮らしを始めるわけでもないし、大学の方もアイドル活動とかには理解があるみたい」
「そうか。なら今まで通りの仕事量にしておく。つらいと思ったらすぐに言ってくれ」
「えぇわかってるわ」
コンビニでコーヒーを買って、そのまま彼が喫煙場へと向かおうとしたので、私は彼の手を掴んだ。
「何だ?」
「渡したいものがあるの」
いぶかしそうな目をする彼を運転席に座らせ、私は鞄から彼へのプレゼントを取り出した。
「贈り物よ。そうね。私たちの一年記念とでも言おうかしら」
「開けていいのか」
「えぇ。どうぞ」
彼はリボンをゆっくりとほどいて、包装を破ることなく丁寧にはがしていった。
女性の服を一つ一つ脱がしていくような慎重な手つきだった。
プレゼントをあげるという経験は私の人生で初めてだったが、私は苦手みたいだ。わくわくよりも緊張の方がはるかに強い。
「これは、灰皿?」
黒のシンプルな箱から現れた赤紫の革の携帯灰皿を見て、彼は言った。
「えぇそうよ。プロデューサーなんだから女の子だけでなくて自然にも優しくあるべきだと思わない?」
彼はまったくだ、と言って、少し困った顔を浮かべた。
「気にいらなかったかしら?」と私が聞くと
「いいや、そうじゃない」と首を振り、困った顔のまま嬉しそうに言った。
「こんなの貰ったら、煙草の量が増えちゃうじゃないか」
彼は車の窓を開けてさっそく一本煙草を吸った。じりじりと音を立て、煙草は燃え始めた。
私はその様子を黙って見ていた。彼もまた黙って煙草を吸った。煙草の音と彼の煙を吐く音だけが車の中で流れていた。
微睡みのような5分間が終わり、じゃあいこうか、と彼は短くなった煙草を灰皿に落とした。